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ザビ神父の証言

ザビ神父の証言

チューリップバブル(1~10)

リフォルニアにお住まいのマダム・リンダからご要望をいただいた、イギリスの「南海泡沫事件」の顛末記が、「学級の誕生」の連載が伸び、ずっと遅れておりましたので、本日から数日の予定で記したいと思います。

頃は1720年代の初頭ですから、産業革命の開始に先立つこと約50年、株式会社が産声をあげ始めた時期のことです。1990年代から日本でも有名になり、今まさに米欧のそれがはじけて、世界に大迷惑をばら撒いてもいる、バブルの崩壊の、いうなれば最初のケースです。

全般的な感想を記すと、人間は金銭欲に執り付かれると碌なことをしないのは、昔も今も少しも変わらないなぁと言うことでしょうか。

当時のヨーロッパで経済先進国として、貨幣の役割が大きくなっていたのは、トップを走るオランダ、次いでイギリスとフランスでした。この3国でオランダ、フランス、イギリスの順で、バブルの狂想曲が起きていますので、前の二つも簡単に振り返っておきたいと思います。

最初に申し上げておきたいことは、貨幣経済の普及以前、現物の交換が主で、貨幣があくまで補助手段に留まっている時代には、バブルは発生しないということです。17~18世紀の段階では、まだ紙幣の役割は小さく、金銀銅が貨幣の役割をしていましたが、ご承知の通り、16世紀の後半から、メキシコやペルーの金銀がヨーロッパに持ち込まれ、貨幣の流通量が大きくなり、貨幣経済がそれなりの力を持つようになります。その貨幣を当時最も大量に保有するようになったのが、17世紀のオランダでした。スペインから独立したばかりのオランダは、イギリスに先んじてアジア貿易の先頭に立ち、経済と宗教を分離することで徳川幕府にも取り入り、当時としては大きな金保有国だった日本との貿易を、欧州勢としては独占することに成功したことは、ご承知の通りです。

貨幣を蓄積したオランダで、最初のバブルが起きたのは、そういう意味では当然のことでした。

(2)
それでは、史上最初の大規模なバブル騒動となったオランダのチューリップバブルを見てみましょう。さて、史上最初のバブルが、通常の資産ではなく、チューリップという植物を対象に起きた理由は、現在でも明確な説明はなされていません。

時は1630年代、当時すでにアムステルダムやロッテルダムには、世界で最初の近代的な証券取引所がありましたし、投機の対象としては、チューリップより適切なように思える、明の磁器、トルコのじゅうたん、さらには絵画なども、積極的に取引されていたのです。

それなのに、何故チューリップだったのか。「チューリップは栽培が困難だったから」という説明がなされたこともありますが、あまり説得的には思えないですね。

ところでチューリップは、16世紀の中頃に、オスマン帝国から西欧に齎されました。なにしろチューリップの語源は、トルコ語でターバンを意味するトゥリパンからきているとされるのですから。オランダ人は西欧各国の中でも、特に花に強い愛着を持つ国民として知られています。国土の狭い国のため、土地が狭いために、少数の例外を除く国民の大部分は広い土地を持てないため、狭い庭に小さな花壇を作るしかないため、花壇の中央に高価な花を植えて楽しむ風習ができたとされています。

そうした花々の中で、特に色とりどりで、しかも色調の鮮やかなチューリップが好まれたといいます。オスマン帝国から齎されたチューリップは、ほどなくヨーロッパ各地で高く評価されるようになります。そして1593年のことです。スペインとの独立戦争を遂行中のオランダで、フランスの植物研究家のクルシウスが、ライデン大学で従来のチューリップとは異なる、美しくも変わった花を咲かせます。それ以来、オランダでは変種のチューリップ作りが流行になります。

稀な品種の球根は、高値で取引されますから、誰もが変種を作ろうと躍起になったのです。チューリップの花は、そう長持ちする花ではありませんから、取引は保存が可能な球根で行われ、アムステルダム、ロッテルダム、ライデンには、常設の球根市場も開かれました。
                                
(3)クルシウスが発見した珍しい花は、ウィルスに感染してモザイク病を起こしたチューリップでした。ウィルスは感染しますから、現在ならすぐに償却処分されます。しかし、ウィルス感染による病変が突然変異と考えられた当時は、この事実は知られておりません。

コッホやパストゥール、北里柴三郎らの努力で、次々に細菌が発見されてゆくのが19世紀の末。ウィルスの発見は20世紀に入ってのことなのですから…。

それゆえ、病変を起こしたチューリップの球根は、新種として珍重されました。とりわけ、紫と白の縞模様に変異し、「センペル・アウグストゥス(無窮の皇帝)」と命名されたチューリップが最高の人気を集めました。

オスマン帝国からの渡来品であり、元々入手しにくいチューリップの球根は、最初から高値を呼んでいたのですが、クルシウスの成果に刺激された園芸家たちは、自ら栽培も手がけ、品種改良にも取り組みました。変異はウィルス感染によるのですから、同じ球根を何年も植えていると、ウィルスに感染する確率は高くなります。まして密植の場合には、まとめて感染する可能性も高くなります。

こうして、何種類もの変異したチューリップが、新種として珍重されるようになったのです。「…提督」「…副王」「大元帥」などと名付けられたチューリップが、「無窮の皇帝」を最上にして、高値で取引されたのです。海洋国家オランダでは、皇帝に続いて、海軍提督が高位を占めると考えられたのですね。副王とは植民地の最高支配者を指します。本国の国王から、統治権を委ねられ、本国の王にのみ服従する立場を指しています。言いえて妙ですね。大元帥とは、当時のオランダでは、実質的には名誉職でしたが、陸軍軍人にとっての最高の役職でした。こうした名前が球根のランクを示すためにつけられたのですね。

ところで、1630年代のヨーロッパは、主としてドイツを舞台とした30年戦争(1618~1648年、日本で言うと、秀忠から家光にかけての時代で、鎖国体制がほぼ完成するのが1639年です)の最中にありました。この戦争はドイツにおける宗教対立から始まった内乱にヨーロッパ大陸の国々がこぞって介入した戦争です。デンマーク、スェーデン、フランス、スペインなどなどが加わり、結果的にドイツ各地の疲弊と小邦分立状態を決定的にし、さらにスペインの没落とフランスの覇権を確立して終了しました。

ですから、オランダのスペインからの独立が、最終的に確定したのは、この戦争の終結時に結ばれたウエストファリア条約によるのですが、1610年代後半には、事実上の独立を勝ち取っていたのです。そして、大陸の強国たちが、大陸の戦争に熱を上げている間に、オランダはせっせとアジア貿易に精を出していたのです。

こうしてアジア貿易で蓄えられた富と、スペインの脅威が消えたことによる開放感を背景に、オランダ人の気持ちの緩みと、中層・下層の人々の一攫千金への夢がない交ぜになって、生じたのが、チューリップバブルだったと言えましょう。
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チューリップの球根は、投機に適していました。当時は知られていませんでしたが、ウィルスによる病変で、貴重酒がが生まれ出るのです。普通の球根が、突然に高価な貴重種に変異することがあるのです。どうなるか分らない不確実性があるのですから、もしかしたらという一縷の望みに賭けてみる余地があったのです。

普通の球根を植えても、そこから皇帝や提督、副王などの花が開く可能性があったのです。そしてチューリップの栽培は、そう難しいものではありませんし、ギルド(同業者組合)もありません。要するに誰もが球根を購入して、栽培に参加することが出来たのです。大きな株式会社の株式を買うには、相当な資力が必要です。しかし、ごく普通のチューリップの球根なら、大抵の人が買うことが出来ます。

当初、チューリップの市場は、球根を掘り出す夏場から、球根を植える秋にかけてに限られていました。 主に夏場の売買が中心でした。しかし、チューリップ人気が高まるにつれ、年間を通じて取引できる仕組みが作られるようになりました。栽培者は、球根の列に名前をつけ、夫々の球根に番号をつけ、花の種類と植えつけたときの重量を記録しておきます。

貴重な品種は、球根1個単位で取引されますが、値決めは球根の重さで決められました。値打ちが下がるに連れて、重さに関係なく個数売りになり、最も人気の低い種類は袋売りされました。

チューリップ売買が、過熱し始めたのは、1634年頃とされています。チューリップ人気が北フランスに飛び火し、北フランスの都市やパリで、球根の価格が上昇していると伝わってきたのが、きっかけでした。チューリップ市場に新たな参加者が登場したのです。腕の良い職人や中農層でした。こうした人々は、ごく普通の球根から貴重種の栽培に成功することがあり、1度成功すると。続けざまに成功する確率が高く、短期間に巨万の富を築くことが出来るという話に飛びついたのでした。現実に身近に成功者が出た場合、周囲の人々はその成功譚を聞き、自分もまたとの思いを強くしたのです。

熱狂は次第により広い社会層を巻き込んで行くのですが、チューリップが齎された当初、金に糸目をつけずに、自らの庭園に沢山のチューリップを植え込んだ富裕な大商人などの上流の人々は、チューリップをお金儲けの手段とすることから一線を引き、チューリップ取引からしばらく遠ざかっていったことが、特筆されます。いつの世でも、バブルの狂乱に踊るのは、中・下層の人々や、俄か成金ということになるようですね。

チューリップ市場もまた、参加者が増えるに連れて、性格を変えてゆきました。当初は相対で取引されていたのが、ブローカーや投機家が集まっての取引に変わり、さらには通年取引や先物取引が登場するようになっていったのです。
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チューリップは春先に花をつけ、夏の初めに球根を掘り出し、秋の終わりに球根を植え付けて、翌春の開花を楽しみます。ですから、球根の売買は、夏から秋にかけて行われます。それが、チューリップ熱が高まり、チューリップが投機の対象になってくると、「春の終わりに球根を渡すから」「それなら、手付けは払うが、残りは糾問の受け渡しの時に払う」ことを約束する手形を切ろうという、一種の先物取引が誕生します。

こうした先物折引きが誕生すると、チューリップ取引の熱狂は1段階進んできます。ほんの手付けさえ払えば、高価な品種の球根を購入する権利を入手したことになるからです。春の終わりに実際の球根を受け取る前に、「球根を購入する権利」を、時価で売り渡してしまえばよいからです。

ただし、この取引は、球根の購入権が上昇を続けることを前提としています。例えば、12月に入手した購入権が、2月には20%上昇しているならば、濡れ手に粟でそれだけの利益を入手できたことになるわけです。こうした儲け話が広まるにつれ、チューリップ売買に加わる人々は増え続けました。昨年夏ごろまで、盛んに日本のテレビで放映されていた上海周辺地域での、不動産や株式の売買に群がった人々の姿が、当時のオランダの人々と考えれば良いように思われます。

こうした先物取引は、公設市場では行われません。そこで、あちこちの居酒屋にブローカーや投機家が集まって、酒を酌み交わしながら取引が行われたのです。当時、出版されたチューリップ取引の入門書は、チューリップの取引に参加したければ、まず居酒屋に出かけ、「園芸家はいるか」と聞くことだと述べています。すると、その部屋に案内してもらえるというのです。

「うちの店にはいないよ」と断られることは、記されていませんから、居酒屋の殆どで、そうした取引が行われていたことが、わかります。部屋に入ると、およそ3グルデン程度の酒手が請求されます。これはチューリップの買い手に課される取引参加費、いうならば場所代です。部屋にいた売り手たちは、新参の買い手を歓迎してくれます。売り手と買い手の取引は、相対と入札で行われましたが。新参者の場合は、売り手同士で入札を行い、最も低廉な価格をつけた売り手が、その値で売り手となりました。

一般に、売り手は、ある品種の球根を春の終わりに渡すと約束します。買い手は球根を受け取る権利を得るのです。そして、大抵の場合、買い手は春の終わりまで待つことなく、どこかで球根を受け取る権利を売り払って、自らの利益を確定するのです。しかし、この権利の売買も現金では行われませんから、ここで確定するのは、最終的な支払いが行われた場合に、確保できる利益でした。取引の大半が手形で行われ、手形の決済は、掘り出された球根の受け渡しが行われる時だったからです。
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1630年代当時のオランダは、ライデンを中心とした薄手の毛織物(ウステッド)生産が大活況を呈し、開発者利益を享受していました。そのためオランダは織工を中心に職人の給与が上昇し、繁栄を誇っていたのです。職人の年間賃金は、およそ200~250グルデンに達していたと考えられています。同じ時期、小さなタウンハウスは、300グルデン程度だったとされていますから、土地が安かったとはいえ、如何に好景気で職人の給料も良かったかが理解できると思います。

こうした時期に、「大元帥」の大ぶりの球根が2個で900グルデンまで値上がりしています。最高位を占めた「無窮の皇帝」は1個がなんと、6000グルデンにまで値上がりしたのです。球根1個がタウンハウス20戸分です。「副王」は3000グルデンです。2500グルデンあれば、小麦が27トン、ライ麦50トン、良く肥えた雄牛4頭、同じくブタ8頭と羊12頭、ワインの大樽2樽、ビールの大樽4樽、バター2トン、チーズ2トン……がすべて購入できると、当時のパンフレットは報じています。ちょうど、グーテンベルヒの活版印刷機がオランダにも導入された時期で、出版物も出回り始めていたのです。

こういう状況でしたから、投機家たちの多くは、球根価格の異常に気づいておりました。ですから彼らは、先物で購入した球根を、高く買ってくれる顧客を見つけて、なるべく早く売り抜け、利益を確保することしか考えていなかったのです。

当時の匿名の著者のパンフレットは、投機家とその友人の対話形式の警告書の中で、投機家にこう説明させています。「夏が来るまで、金は支払わないし、その頃までには、買ったものは全て売っている」「投機熱は続いても、2年か3年だろう。それだけの時間があれば十分だ。でもそんなに時間のない可能性もある」などと…。

さらに著者自身の言として、「これだけ沢山の人たちが参加しているのだから、売り手の方が多くなっても不思議ではない。買い手よりも売り手が多くなれば、熱気は一機に冷え込むだろう」と、冷静な見立てを描いています。

この予想は、さらに早く現実のものとなりました。暴落がある日突然始まるのも、バブルに共通した現象のようです。
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チューリップを巡る熱狂の終わりは、1637年の2月3日に当然にやってきました。バブルというのは、不思議な魔力を秘めているようです。チューリップは球根です。増やすにも限度があり、毎年少しづつしか増やせません。まして、貴重種はウィルスによる病気ですから、思い通りに作ることは出来ない。この数の少なさが熱狂的な投機に繋がり、誰もが信じられない高値を呼びました。

理性的な人物は、こんな高値が続くはずがないとして市場を離れました。そして、前回に紹介した当時のパンフレットにある通り、誰もが「チューリップ投機は、長くは続かない。終わりは近いかもしれない」と考えていました。しかし、そこがバブルの魔力です。「でも、それは明日ではない」と考える人たち、欲に目の眩んだ人たちが、より高値で売り抜けるために、来る日も来る日も、市場に参加しに来るのです。

それは流れに乗り遅れて、ようやく球根を買おうと出てきた不幸な人であったり、何度か甘い汁を吸い、蜜の甘さの虜になって何度目かの甘い汁を吸おうとした人であったり、儲けを膨らませようと、なお以前に買った球根の先物を、なお保持し続けている人であったりするのです。こうした姿は1929年のアメリカのウォール街にも、去年から今年にかけての上海の株式市場にも、そして1990年代の日本の不動産売買でも、バブルがはじける時には、どこにでも見られる共通の姿です。その最初の幕が開いたのです。

誰もが、このバカ高値はいつまでも続かないと思っていたのですから、プロを自認するような相場の参加者は、水鳥の羽音のような些細な音にも敏感に反応します。1637年2月3日に、一斉に売りを出したのは、こうした人たちだったのでしょう。この日の朝、売りが買いを上回ったことだけは確かです。詳しい統計などない時代ですから、どのくらいの売りが出たのかは、特定できません。ともかく時間の経過と共に売りが売りを呼ぶ、パニック売りが遂に始まったのです。

それでも、この日に売りを出した人はまだ幸いだったのです。暴落を仕込み場と勘違いした初心者達が買ってくれたからです。翌日4日には、チューリップはいくら値下げしても売れなくなりました。先物契約は決済不能となり、債務不履行が次々に発生しました。球根栽培で潤ってきた正真正銘の園芸家たちにも被害が及びました。彼らは債務不履行を起こした投機家たちに、支払いを求める裁判を起こしましたが無駄でした。なにしろ相手が無一文になっているのですから、裁判に勝っても取り立てるものが何もなかったのです。

取り立てることが出来たのは、運が良い場合で契約金額の5%程度だったと、園芸家の何人かが語っています。
                               続く
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チューリップバブルの崩壊が、現在のバブル崩壊と違っているのは、それが全国的な経済危機を引き起こすことはなかった点にあります。オランダの西部地域で多少の混乱を招いただけで、それ以上の広がりを見せることはなかったと記されています。それは、バブルの初期の段階で、オランダ経済の主力を構成する金融資本や貿易商人、船主達は、チューリップ売買を見限っていたからです。

バブルに踊ったのは、中・下流の人々でした。「裁判で勝利しても、債務者に支払い能力がなかった」と、 前回に記しました。一攫千金を夢見て、投機に参加した人の中には、家財道具の一切を失った人も多かったのです。暴落直前に球根を売り抜けることが出来た人々の中にも、売った相手に支払い能力がなく、受け取った手形が不渡りになる不運に合う人もまた、少なくありませんでした。

不動産や家財を担保にした人たちは、当然全てを失います。その中に、当時の風景画家ヤン・ファン・ゴイエンもおりました。彼は暴落の直前に900グルデンと2枚の絵画で、買えるだけの球根を買っていたのです。彼は、わが身の不運を嘆きつつ、19年後貧窮の中で死亡しました。

チューリップ市場の混乱と、複雑な債権・債務のもつれ合い、両者の訴訟合戦の中で、当事者達の陳情合戦に音をあげた議会や市当局は、「調査が終わるまで、全てを凍結する」という触れを出し、沈静化に務めました。

こうして、バブルの崩壊から1年3ヶ月後の1638年5月、政府は「合意価格の3,5%の支払いで、売買契約は解除できる」と宣言しました。この宣言で、ようやく落ち着きを取り戻しました。しばらくすると、園芸に関心のある純粋に栽培目的の目的の人たちが、市場に戻り、安値の球根を買うようになりました。

数年後、「無窮の皇帝」など貴重種の球根は、ようやくバブル開始以前の価格に戻りました。しかし、バブル期にボロと呼ばれた普通の球根は、以前の価格を回復することは、遂に出来なかったのです。

バブル後、しばらくの間、オランダの人々はチューリップを毛嫌いしました。チューリップは愚かさの象徴とされ、いくつもの寓意画で、すぐに散るはかなさを示す花として、描かれたりしたのです。チューリップの球根がオランダの輸出産業の一つとして復権するには、長い時間が必要だったのです。

しかし、形を変えてバブルは再来します。
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チューリップバブルで痛い目に遭ったオランダ人は、何の罪もないチューリップに八つ当たりしました。しばらくの間は、球根の投機はこりごりと思っていました。

しかし、喉元を過ぎると熱さを忘れるのもまた人間です。欲ボケ人間は、過去の教訓を忘れてしまうのです。だからこそ、何度でもバブルが再来するのです。

チューリップのバブルから、およそ100年後、同じオランダで、今度はヒヤシンスに対する投機が始まったのです。同じ球根なのなのですから、笑ってしまいます。

ヒヤシンスは、ホメーロスの詩にも出てくるくらいですから、ヨーロッパに古くからある花でした。それが、18世紀に入って、突然オランダでの人気が高まったのです。理由は定かでありません。1720年頃になると、価格の上昇が目立つようになってきます。1630年代の苦い出来事を学んでいた人々から、「100年前を思い出せ…」とばかり、いくつもの警告が発せられました。にも関わらず、投機熱は高まっていったのです。

今度の場合も、投機に熱中したのは、ヒヤシンス栽培の専門家ではありませんでした。投機性の高い先物取引も、いつの間にか行われるようになりました。チューリップの時と同じように、球根を見ることも所有することもなく、書類上の契約をし、転売益を得るために、取引が行われました。当然取引価格は、実態から乖離して1人歩きしたのです。

暴落はある日突然にやってきました。この点もチューリップバブルと同じでした。1739年、価格は暴落し、5年前の1734年の価格に比べても、十分の一から二十分の一にまで、低下しました。最盛期に比べるとどのくらいか、想像がつきますね。

チューリップの記憶が残っているにも関わらず、ほぼ同じ出来事が起きているのです。後になって、落ち着いて考えてみると、実に馬鹿げた失敗を繰り返したことが分ります。それでも投機は再発したのです。ここにこそ、バブルの本質が潜んでいると言えましょう。
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(10)
この節の最後に、チューリップ・バブルを巡って生まれた、黒いチューリップの伝説を紹介します。この話は、アレクサンドル・デュマの小説『黒いチューリップ』の題材にもなっています。

「ハーグの靴屋が黒いチューリップの栽培に成功したとの噂を聞きつけ、ハールレムの園芸家組合の一行が、この靴屋を訪れます。黒いチューリップの球根を買いたいというわけです。しばしの駆け引きの後、商談が成立。靴屋は1,500グルデンの値で、球根を譲りました。球根を持って外に出た一行は、そこで球根を地面に投げ捨て、靴で踏み潰して、使い物にならなくしてしまいます。見送りに出た靴屋が驚いて抗議します。その時園芸家の1人がこう話します。」
『愚か者。黒いチューリップなら我々も持っている。おまえの運もこれまでだ。1万グルデンでも払ってやったのに、惜しいことをしたな』と。
「巨額の富を掴み損なったと知って、意気消沈した靴屋は、鬱々として楽しまず、やがて病床につき、しばらくして息を引き取りました。」

チューリップの花に、黒色は生じません。こげ茶色がせいぜいです。ですから黒いチューリップの話は、実話ではなく、伝説です。こうした伝説が生まれたのは、チューリップバブルが招いた貪欲の凄まじさによります。黒いチューリップの伝説は、その後に生じたバブルのたびに生まれた伝説と共に、一般向けに投機を戒める役割を担い続けたのです。

「黒いチューリップを忘れるな。○○○○を忘れるな。気をつけろ。明日に暴落が待っているかも知れないぞ…」と。
イギリスのジャーナリストは、1996年7月19日付けで、『スペクテーター』誌に寄せた記事を、こう結んでいます。「オランダでは、今でも黒いチューリップは、あまり好かれていない。」と。
                                 完



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